交通ルールと事故について
経験も少なく、状況判断の難しい小・中学生などには、ルールとして覚えてもらうしかないかもしれませんが、僕にとって「交通ルールを守ろう」という単純な呼びかけには、いつの頃からか、若干の違和感を感じるようになりました。
というのも、正直僕には交通ルールを守ろうという意識が、それほどありません。
ただ、毎日車を運転しますし、たまに自転車も、バイクも、もちろん歩行者でもあります。
けど、ルールを守るという意識の前に各状況において危険予測と危険な運転の軽減を常に心がけています。
もちろん同乗者の安心と安全も。
そうしていますと、結果的に交通ルールに反するという事が無いのです。
そういった意味では日本の”交通ルール”はなかなか熟慮されていると言えますが、交通ルールを守るという意識の前に、ハンドルを握る方ひとりひとりにそのような心がけを前提としていただきたいのです。
その上で、さらに確認という意味で交通ルールに従う。
そう心がけていただきたいのです。余談になりますが、僕には大切な家族がいます、独身の時には大切な彼女もいました。
大切な人たちとドライブ、ショッピング、レジャーランドや動物園など様々な所へ出かける機会はあります。
もちろん楽しむこと、楽しんでもらうことが目的であり大切です。
けどそれと同時に周辺に対する危険予測というのはいつでも怠ることができません。
寸善尺魔、好時魔多し、この世は良いことより悪いことの方が多くある、また調子の良い時には何かと邪魔が入るりやすい。
その事が常に胸中にあるからです。
これは決して悲観しているわけではなく、そういうものなのだと冷静に受け止めているだけであります。
なので楽しみにしている人たちに水をささないよう、気づかれないように、僕はついボディーガードとして周囲を見渡せる位置、つまり家族と一緒に歩く場合は、一番後ろにいることが多くなります。
数年前に海浜公園へ出かけたときには、その心がけが功を奏しました。
ですから100%楽しむ、終始はしゃいでいる、ということは父親として無いかもしれません、それはつまらないから、早く帰りたいからではなく、大切な人を守る役目がある、という自覚の現れであります。
そんな”彼氏”や”お父さん”たちはたくさんいると思います、ご理解ください。
話を戻します。
僕の住む地域では高齢者ドライバーが非常に多く、脇道から車や自転車が度々安全確認せず飛び出してきます。
ほかにも駐停車違反、通行区分違反、無灯火、合図不履行、一時停止違反などなど、それらに遭遇するのは日常です。
なのでそのような危険予測と危険回避の意識を余儀なくされている、からかもしれません。
さらには危険回避には交通ルールを守り過ぎないことも必要です。
今言いましたように、こちらが優先道路だから車や自転車は脇道から飛び出してこない、こちらが青信号だから正しいし絶対安全だ、歩道だから車は絶対来ない。
自分は正しいことをしている、つまりルールが味方しているという驕りは、かえってリスクを高めてしまう事にもなりかねません。
大きな事故が起こる時は、はっきり言って交通ルールなどは関係無く、きちんとルールを守って歩道を歩いていても、車が猛スピードで突っ込んでくるのです。
右側をすれ違うはずの対向車が正面に突っ込んでくるのです。
自分がいくら交通ルールを守っていても事故は起こります。
こういうことは、あまり申し上げにくいのですが・・・
交通ルールが明確に効力を発揮するのは、事故を起こした後の、過失割合の判断基準や、道路交通法違反等の反則金の徴収や減点基準、そこでドライブレコーダー等での事実確認とともに、誰がどのくらいルールに従っていたかどうかで、悪い側を決める。
そういった判断の基準が欲しい時に、効果を発揮するのです。
むしろ、僕にはそのために設けられているような気がしてなりません。
確かに交通ルールを全ての人が完璧に守れば交通事故は激減するでしょう。
けど、もしそれが叶うのであればとっくに実現しているはずです。
ルール違反がなくなることを待っていたら、何百年かかるか分かりません。
何万人、何百万人の命がなくなってしまうのか見当もつきません。
酒気帯び運転等が厳罰化されたところで無くならないのは、充分にそれを意味しているからだと思います。
人間が車を運転する以上、一定の割合でルールを守ることができない、また守らない人がいるという事は、多くの人がわかっていることだと思います。
ましてや急速に高齢化が進む社会で、車の運転がどんどん難しくなる人が増える中で、どうして悲惨な事故が減らせるというのでしょうか。
毎年車が何台も、何の罪もない子どもたちの列に車が突っ込んでいます。
園児などは大人の半分にも満たない身体の大きさであり、瞬間的な力も入れられず、そんな無防備な子どもたちに躊躇なく突っ込み、いくつもの小さな身体をなぎ倒すのです。
自動制御装置のひとつも付いていれば命を落とす子が骨折で済んだかもしれません。
怪我で済んだかもしれません。
後遺症が残らずに済んだかもしれません。
少しでも助かったかも知れません。
そう思うと、悔しくて悔しくてたまりません。
オリンピックなんてどうだっていい、いったいあと何人の小さな命が奪われれば自動車という凶器を、ドライバー任せにしないような取り組みを本気で始めるのでしょうか。
科学技術の発展を、人の命を守るために活用する気になるのでしょうか。
それができないのなら、いっそ自動車を廃止にする法でも定めてもらいたいです。
それなら毎年数千人もの命を奪われないといった願いがすぐに叶います。
車の性能だってもう充分です、各自動車会社には徹底した安全対策、安全性能を競って欲しいものです。。
「交通事故」、今始まったことではありませんが、便利さが伴うリスクにしては、あまりに大き過ぎます。
誰に、何を言いたいのかまとまらなくなってしまいましたが、、もっとちゃんとした取り組みは絶対にできるはずなんです。
昨日から、いてもたってもいられず、文章に残したくなった次第です。
ここまで真摯に読んでいただいた方、本当にありがとうございます。
最後に、交通事故によって亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、ご親族に対しお悔やみを申し上げます。
2019年5月9日